ダラットの風に吹かれて〜、日本語教師。

ベトナム在住16年の日本語教師、サイゴンからダラットに引っ越して、コロナ流行には翻弄されながらニャチャンとダナンを行ったり来たり。今はダラットに舞い戻り日本語教師引退後の生き方を模索中。

アラファト議長の手は小さくて柔らかだった!『回想』

 パレスチナ、ガザとイスラエルの状況には胸が痛むが、実は私は昔、パレスチナでアラファト議長と会って握手した経験がある。


と書くと、皆さん、びっくりされるかも知れないが、その経緯を思い出しながら書いてみたい。


時は、今から23年前、私は名古屋市でFCコンビニ店を経営していたが、FCコンビニ店は典型的な搾取システムで日々コンビニ本部の奴隷契約に悩まされてストレスが溜まるばかりだった。


そんな時に、中東のパレスチナへ訪問するツアーが企画されて、私は衝動的に応募して参加したのである。それまで、パレスチナ情勢に詳しい専門家でもなかったが、名古屋で市民の平和運動に時々参加していて、まさに衝動的に参加することになった。


約1週間の日程だったが、24時間営業のコンビニ経営をする立場では、本来冷静に考えたらとても参加できる状況ではなかった。
1週間もコンビニ店の現場を離れて、海外に旅行をするなんて常軌を逸していると思われるし、コンビニ本部にも詳細は言わずに、出かけた。


今思えば、無茶だったと思う。1週間の間のコンビニ店の運営は何とか従業員に任せるとしても、旅行先は紛争地域の中東地域のパレスチナ、イスラエルである。
万が一に、私の生死に関わることが発生するかも知れない。その時のために、その事態が起きた時の為に遺言的な対応も友人に頼んでおいた。


今にして思えば、なんでそんなことまでしていく必要があったのかと言われるし、自分でもそう思う。
幸にして、無事に帰国できたから良かったが…。冷静に考えたら、私は行ける状況でも、環境でも、条件も無かったのである。


「パレスチナの紛争地帯でデモに参加する」という予定があったらしいが、企画も突然の計画で行ってみないと分からないのである。後で、分かったことだが企画の中心は東京の社会党の事務局が関わっていたようだ。


そういう訳で、全国から寄せ集めの20名弱の参加者メンバーは、現役の新聞記者が一人居て、あとは普通の市民で、中には車椅子での参加者も居てまさに寄せ集めだった。(私の独断的な感想)


そのメンバーで飛行機を乗り継いで、テルアビブ空港に着陸したのは深夜だったと思う。
ところが、その空港で入国許可がおりないのである。当時はすでに紛争状態で、パレスチナへ訪問するという目的は秘密でイスラエルで観光という名目だった。
当然に、イスラエルも「のんびりと観光できる状況ではない」と判断して入国許可は出ないから、このまま引き返せと言うのである。


外務省を通じて連絡が取れているはずだと交渉するのだが、無理だと言うのである。
引き返せと言われても、深夜でもあるしどうするの?新聞記者の人もいろいろと連絡を取ってるが難しい。詳しい経緯も分からないその他参加者は、このまま帰るの?と言う不安と危機の状態に驚くばかりだった。「ここまで来て、帰るの?」


空港の外では、日本大使館の人間も待ち構えていたと思うが、入国許可が出なければどうしようもない…。


私は、最悪のパターンを想像して、このまま朝までテルアビブ空港のどこかで雑魚寝でもして、朝になったら追い返されるパターンを想像していた…。


ところが、何時間経過したか分からないが、突然に入国許可が出たのである。




空港の外では小さなバスが待っていて、宿まで送られて朝まで仮眠した記憶が微かにあるが、詳細は記憶にない。20数年前の出来事だから。


今思えば、当時の記憶を文書に残しておけば良かったなと思うのだが、ビデオカメラを持参して撮影はして、帰国して一部デジタル化して置いたのだが…。


今、記憶を振り返って、イスラエル側からパレスチナ側への検問通過時の緊張感、一部砂漠地帯を炎天下で通過したこと、パレスチナ人の民泊での体験、PLOのアラファト議長と握手したこと、エルサレムを訪問したこと、嘆きの壁でのこと、金箔のドームのことなどを書いておこうと思う。


イスラエル側からパレスチナ側へ行く時に検問を通過するのだが、銃を構えているイスラエル兵を見た時には正直恐怖感を覚えた。


ラマラのPLOの事務所がある所を表敬訪問した時に、私達はバスで移動していたのだが、事務所から数人が出て来て私達のバスに近づいて来た時に、テレビなどで見るアラファトらしき人物が見えた。「アラファト議長だ!」と興奮した。 バスの後方ドアから乗り出して覗いていたらボデイガードらしき人が手招きするので私は急いで駆け寄った。アラファトさんのすぐ前に寄って手を出したら握手してくれた。柔らかな手だった。ゲリラ闘志のイメージと違って、ゴツゴツした逞しい手を想像していたが違った。背もそんなに高くなくて小柄だった。


日本からわざわざ会いに来てくれて感謝するというようなスピーチを代表の人に話していたらしい。この時に、アラファト議長の横にスタイルの良い綺麗な中年女性がいたのだが、後に名古屋YWCAで開催したパレスチナ問題の講演会にパレスチナから来日した女性活動家が、その時の写真を見せたら「私の友人だ!」と言っていたのが印象に残っている。


(この数年後に、アラファト議長は死亡している。暗殺されたという説もあるが定かではない。)


パレスチナに行って見て、パレスチナの人々がアメリカの「ダブルスタンダード」https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_653ef24ae4b032ae1c9b7b61を批判するのを何回も聞いた。「米国はいつもパレスチナを支援する国連決議を拒否権を行使する」