ダラットの風に吹かれて〜、日本語教師。

ベトナム在住16年の日本語教師、サイゴンからダラットに引っ越して、コロナ流行には翻弄されながらニャチャンとダナンを行ったり来たり。今はダラットに舞い戻り日本語教師引退後の生き方を模索中。

「砂の器」(松本清張)に書かれた「亀嵩」

私の故郷に、小説「砂の器」(松本清張原作)に出てくる亀嵩という所がある。
映画になって、テレビでも再上映されて、その亀嵩で映画撮影が行われて地元では大きな出来事になったようだ。(当時、私は故郷にいないので伝聞調だが)


その亀嵩に、玉峰山荘という温泉ホテルがあるのだが、そのホテルのロビーにはその撮影当時の写真がデカデカと飾ってある。(これしか自慢するものはないのか)


その亀嵩の地に「湯の神社」があるのだが、その境内の前にも”「砂の器」撮影現場”という看板が立っている。




この小説「砂の器」は松本清張の原作を読んだ記憶があるが、故郷の「亀嵩」という地名が出てくるし、東北弁と同じようなズーズー弁の出雲弁が取り上げられるし、当時の読み終わっての感想は面白いと同時に何か重苦しいものが私に心には残った。


貧しい農村の田舎を背景に展開する殺人事件の人間模様の物語に、私はなぜか我が身と主人公が重なってるような錯覚を見るような気がした。


貧しい農村の田舎の持っている人間関係や風土がこの小説から想像されて人ごとではないような思いがした…。


だから、この小説「砂の器」がテレビや映画されて「亀嵩」が有名になっても、”私の故郷だよ”と周りに自慢する気にはなれなかった。
それだけ、私には最初の映画「砂の器」のイメージは暗くて重いものがあった。

お寺の住職に叱られる。

母の葬儀が終わり、お骨を供養塔に納骨するときにお坊様に叱られた。


葬儀が終わり、火葬にしてお骨をお寺の敷地内にある供養塔の中にお骨を納めるために、お寺にお骨を持参したのだが、住職は忙しそうでその場で供養塔には収められなくて明日にということで寺を後にした。


翌日は、母が15年間入所していた老人ホームに退所手続きに行くが、長い入所生活で世帯道具も多くて、大きなものは業者に引き取り処分を頼むが、それでも私が持ち帰る物もあり、車もバイクも無い私には困ったことになった。とりあえず施設に預かってもらうことにした。


そんなことにバタバタして、私はお寺のお坊様に電話することを失念してしまった。


そこに、東京からわざわざ車で帰省してくれた従兄弟に車に同乗してもらいお寺に行く。
そしたら、住職はカンカンに怒っておられた。私がお骨をお寺においたままにして連絡もしないことに、「不信心モン」だとお怒りになってしまった。


約束の連絡をしない私が悪いので謝るが、住職の怒りは収まりそうも無い。「父の命日も覚えてない。もちろん戒名も。」「ベトナムに長年住んでるからか…。」などとキツイ言葉で叱られた。


住職は40代後半だと思うが、怒った時の態度は厳しいものがある。
数年前に、供養塔のことで対話した時の私の言葉を思い出して、批判的な言動をされた…。


私にとっては、家族の死は初めてのような出来事だ。約20年前に父が亡くなているが、そのときの葬儀は母が実質的に仕切ってくれて、都会で仕事に明け暮れていた息子の私は葬儀に蜻蛉返りをしただけの名だけの喪主であった。その後の、法要も行ったかどうか記憶が定かではない。(母が、田舎で単独で行ったかも)


故郷を離れて、大都会で仕事と生活に明け暮れて、父の命日すら気にしない生活を送っていたのは事実だ。(当時、私は名古屋市でFCコンビニ店を経営していた。FCコンビニ店を経営することが、どれだけ大変なことかは此処では説明する時間がない。)


今回の母の死で、いろいろなことを考えさせられた。実は、今年の2月には妹が死んでいる。その時は、真冬の出来事で、環境的にも身体的にも精神的にも私にとっては強烈なストレスだった。実質的に一人で葬儀を行い精神的にキツかった…。


そして、8ヶ月後に母の葬儀だ。


一年に2回も葬儀を行い、人の死と葬儀について考えさせられた。人の死は瞬間であるが、その死に至るには、その死者の長い人生があるのだ。死に至るまでの長い人生が、その結果が死の瞬間に覆い被さってくるような気がする。


一年後に、一周忌の法要を行うことを住職と約束してお寺を後にした。

合掌

「ここはかめだけうさぎはいない」

 タイトル「ここはかめだけうさぎはいない」この看板は今、私が一時帰国している日本の田舎の田んぼの横に立っている。いつからここに立ってるのか定かでは無いが、面白いと思っている。


しかし、この平仮名だけでは県外の方には意味不明だろう。漢字表記にすると「此処は亀嵩、兎はいない」になる。


そうです。この地域の地名は「亀嵩(かめだけ)」なのです。


私の田舎のバス停の前の田んぼの横にこの看板が立っていて、路線バスを待っているときにこの看板が目に入り、誰が考えたか?と感心している。


実は、正確にはこの看板が立ってる所は「亀嵩」ではなくて、此処から4kmぐらい行ったところが「亀嵩」という地名なのだが…。


私が中学生の頃は、その地に中学校があり、自転車で毎日通学したことを思い出している。
今では、その中学校も統合されて小学校になっている。因みに、表記の看板が立っているところには小学校があったのだが、今ではそれも統合されている。


私が中学校の時代は、路線バスも無くて、雪が降る冬は雪道を約1時間掛けて通学したものである。


その約1時間かかる距離の道を、今回の帰国時に一度だけ自転車で往復したが、身体的にキツかった。中学生の頃はよく通ったなー、と思い出に耽った。今では、その頃の元気さも無い。田舎の道は坂道が多いので大変なのだ。

合掌

 故郷の病院に入院していた私の母は10月22日に永眠いたしました。百二歳でした。


母は、私が渡越して同居家族が居ないので、しばらくしてから老人ホームに入所した。私は高齢な母を老人ホームに入所させることに負い目を感じていた。高齢な母を日本に残して、ベトナムに日本語教師として赴任することを親不孝で自分勝手な行動だという思いに一部かられていた。


だからというわけでは無いが、渡越してから一年に一回は日本の田舎に一時帰国をして、老人ホームに母に会いに帰っていた。
ただ、コロナが流行してからは3年間は帰国できなかった。今年の1月に帰国して会った時は4年ぶりの再会だった。百歳を越して高齢になって、車椅子生活になり記憶力も弱くなっていた。


コロナの影響で、施設での長時間の面会は難しくなっていたし、別れ際に母は「もう会えないか?」というような発言をしていて、私は「また、会えるよ。」と手を振って別れたことを思い出している。


それから、半年以上の経過で再会した時には、病院のベッドで横になっていて会話はできない状態だった…。声をかけると、薄目を開けて見てるようだったが…。


医者の診断では、「大きな病気があるわけでは無い」とのことで、だんだん食事ができなくなり、老衰で永眠ということになった。


身内と一部親族だけで葬儀を執り行い、葬儀後の手続きを役所に通いながら行ってるところです。
ある程度片付いたら、ベトナムに帰ろうと思っているところです。

母に、付き添いで一泊するが…、

 10月4日の投稿で、母の容態が急変したので病院に泊まるかもしれないと書いていたが、その日はドクターとの話の中で中止にした。


 その後、昨日まで点滴投与は中止にして、自然に食事を食べれるだけにした。
 
 そして、20日の朝に病院の看護師から電話があり、「呼吸が荒くなり、部屋は個室に移動した」との連絡があった。何故に個室に移ったのか?気になったが、とりあえず朝9時過ぎの路線バスで病院に駆け付ける。


 個室は一日6千円の費用が掛かる。当初の看護士の話では2千円ぐらい?と言ってたので、それぐらいなら夜中に呼び出されてタクシーで駆けつけるのと比較したら大丈夫かなと思ったが…。
 
 こちらの意見も聞かずに、「個室に移動しました」と言われてもね…。6千円は決して安くない金額だが…。


 結局、3泊だけの条件で個室の移動は了解した。そして、一晩付き添いで寝ることになった。


 病人のはともかく、付き添い者用のベッドは簡単なソファーを平にできるタイプでブカブカの寝心地は良く無い簡易ベッドだ。


 部屋には、風呂とシャワーが付いていて、小さな冷蔵庫と電気コンロも設置されている。風呂が使えるのは嬉しかった。(実は、田舎の古い家は給湯器なし風呂なしの生活で、2日に1回の温泉通いが日課になっている。)


 だから、1泊6千円のホテル泊まりだと思えば良いか!と了解したのだが、甘っかった。


 実は、かけ布団や毛布も無くて、暖房もエアコンの暖房設備のみで部屋の上部だけで温風が動く設備で寒かったのである。


 入院者の母は、もう声を掛けても返事もないし、荒くて浅い呼吸をしているだけだ。
もう、息子の私が付き添っていることは意識していないのだろう…。


結局、夜中に何回か血圧や検温、体の向きを変える為などに看護士さんが出入りする。
その度に目が覚めるので、寝不足状態で朝を迎えた。毛布や布団も無いので寒さで寝れない…。
 
 付き添いで同宿するのは大変だと分かり、これからは付き添いはしないことにして、自宅で待機してるので、何かあったら連絡をもらうように頼んで、午後に町内の亀嵩温泉で体を洗い温泉で癒して田舎の自宅に帰る。


畳の上で布団の中で寝るのは、簡易ベッドで寝るより良い。