ダラットの風に吹かれて〜、日本語教師。

ベトナム在住16年の日本語教師、サイゴンからダラットに引っ越して、コロナ流行には翻弄されながらニャチャンとダナンを行ったり来たり。今はダラットに舞い戻り日本語教師引退後の生き方を模索中。

ヨガレッスン後、筋肉痛が回復遅い!?

 ベトナムの避暑地、ダラットで隠居生活を始めて約2ヶ月、ヨガ練習を再開したが、週3回の練習を目標にしてるが体力の衰えを実感してる。


私が参加してるヨガ教室の参加者は朝の6時〜7時のクラスだが、人数は30名くらいで男性は私一人で20代から60代のベトナム人女性達が毎日練習している。


ヨガの先生はもちろん若きベトナム人女性でスタイル抜群である。レッスンはベトナム語で行われる。ベトナム語が少ししか分からない私は、先生や他の参加者の動作を見ながら遅ればせながら行う。


時々、先生は私の動作を見て正しい動作を注意してくれるが、それこそ手取り足取りのやり方だ。先生は、私の体の一点を指で押さえたりして正しい動作かどうかチエックしてくれる。


しかしながら、参加者の中では私が一番の高齢者であることは間違いない。(後期高齢者)
若きは20代の参加者からのメンバーに教えるヨガレッスンだから、70代の私にはついていくだけで精一杯である。しかも、昔からスポーツマンではなかった。


内心、このぐらいのレッスンなら筋肉痛もすぐに治るだろうと思うのだが、それが先週の木曜日にレッスンしてから、右肩の筋の痛みが今朝(火曜日)になっても残ってる…。
だから、痛みが無ければ今朝レッスンに行こうと思ったが止めた。

リスを飼ってること

 最近、リスを飼育中である。私がと言うよりはベトナム人妻が飼っていると言うのが正解だが。



コロナが流行する前に、日本語教師の私は仕事の都合でダラットを離れてる時が多かった。その間にベトナム人妻は寂しかったのかどうかは定かではないが、リスを飼い出したのである。今のリスは第3代世代と言うか、約2年前に最初に飼ったのは二匹だったのだが、慣れる前に室外に逃げ出して逃亡してしまった。


その後で、また二匹を飼い出して、それは約一年近く無事に逃げずにいる。
そして、3ヶ月前に新たなリス三匹を飼い出した。だから、現在は五匹のリスが我が家には居るのである。


これから、追い追いにその五匹のリスの状況をこのブログで書いていこうと思う。


その5匹のリスの中の一匹を連れていつものカフェに行くことになった。
私が夕方に、カフェにコーヒーを飲みに行くと言うとベトナム人妻はリスを連れて行けと言い出した。


と言うことで、写真のようなポーチ(?)に1匹のリスを入れてバイクに乗せてカフェに出掛けたのである。
ただ、写真のようにポーチに入れてるだけで外には出せない。出したら最後、逃げ出してしまうだろうから…。(ポーチの窓から顔だけ出してるのが分かるかな?白い肌に目が黒い。)


この小さなリスは生後3ヶ月ぐらいで、まだ赤ちゃんであるが、日々大きくなってる。
しかし、リスは人間には慣れない動物だと思われる。日頃は写真のような籠の中で飼育してるが、時々に室内に放して自由に遊ばしてるが、室外には出さないように気をつけてる。


もし、室外に放したら、自由奔放なリスは室内には帰って来ないのである。我が家でも、2年前に最初に飼ったリスは二匹とも逃げ出してしまった。


そう言うわけで、このまだ小さいリスも絶対に室外で自由に放すことはできないのである。


と言うわけで、今回初めて私は1匹のリスを初めて屋外に連れ出したが、写真のようにカフェのテーブル上にポーチの中に入れて置くだけの事しかできない…。猫や犬のように首輪を付けて連れ回すと言うことも出来ないと思う…。

エルサレムの嘆きの壁、聖墳墓教会を訪れる『回想』


 先に、ヨルダン川西岸のパレスチナ難民キャンプを訪問して、炎天下の移動で日射病の症状になり、グループから分かれてエルサレムの宿にタクシーで戻ったまでを書いた。
その夜は、軽い頭痛がしていたが睡眠もできたので翌朝には症状は治った。


翌日は、グループから分かれて一緒にエルサレムの宿に戻った他の二人の女性たちが「行きたいところがある」とのことで、私はついて行くことにした。それは「嘆きの壁や聖墳墓教会」だと後で知った。


「嘆きの壁」は有名な所で、世界の有名人がエルサレムを訪れると必ずのようにその壁の前で手で触れてお祈りをする映像が報道される場所であるが、その時に私は自分の手で壁に触っていたがあまり感動は感じなかった。むしろ後々に「あの時の石の壁が有名な嘆きの壁だった!」と驚いた次第だ。


その時の一緒に行った二人の女性陣も、嘆きの壁にはあまり感動してる様子も無く、行きたいところがあるようだった。実は、その二人の日本人女性はクリスチャンだったのである。(私は無宗教に近いが、田舎の家は仏教である。)


エルサレムの三台聖地がある迷路のような石段をうろうろと登って行った。
あの有名な聖地を、無宗教に近いよく理解してない一人の日本人(仏教)は二人のクリスチャンの後をついて行ったのである。


その迷路のような石の階段を登って行くと、祭壇のような所に辿り着き、その二人のクリスチャンはその迷路に消えて行った。
私はその二人のクリスチャン女性が戻るまで待っていた。どのくらいの時間が経過したのは今では記憶に無い。後になって、その場所は「聖墳墓教会」だったのだろうと思った。


「嘆きの壁」がある所の近くに石造りの入り口がいくつかあり、何気に入って見た。
その中には広い部屋があり、独特の髪の頭の上に帽子(?)を被った若い人たちが居た。
その集団は静かに作動をしているのが印象的だった。そこはユダヤ教の信徒の人たちの場所だったのだろうと後で思った。独特の雰囲気だった。


そして金色の屋根を持つドームの建物も近くにあったが、そこを訪れたかどうかは今では記憶が定かではない。とにかくエルサレムの三台聖地がある場所をうろうろとしたのは事実である。物見遊山的感覚で明確な目的や意志がある訳じゃない人間がエルサレムの聖地をウロウロとしたのである。その聖地の三つの宗教の一つの信者だったらどれだけ感動したのかと後で思う…。

パレスチナの難民キャンプに民宿するが『回想』

 パレスチナの現地では、難民キャンプと言われる地域に訪問して民宿する計画があった。
私たちは数人づつに分散して、難民キャンプの民家に民宿することになった。
異境の地で炎天下を彷徨いながら難民キャンプの民家に宿泊させてもらうのである。言葉も通じないし、突然にやってきた東洋人(日本人)の集団に、向こうも戸惑ってるようだ。好奇心で目がキラキラと輝いてるようだったが、こちらはクタクタだった。


炎天下をうろうろと行動したので、汗だくだくでシャワーを使わせてもらったが、後で知ったが向こうでは水はとても貴重品なのだった。私は日本の生活のようにシャワーを使ってしまい、後で後悔した。「何日分も使ったのでは?後で住民の水は不足したのでは?」と気にした。
結局、その晩は床についても頭は緊張していて、いろんなことが頭をめぐり、朝まで一睡もできなかった。極度に緊張すると。一晩は眠れないことがあるが、そうなってしまった。


朝になり、宿泊代として幾らかのお金(💲)を床の寝具の中に忍ばせておくことにした。


肉体的にキツイと思ったのは、昼の炎天下をかなりの距離を歩くことになったことだった。
実は、その時の集団には車椅子の人が一人いたのである。私より若い男性だったが、「この中東の異境の地パレスチナ&イスラエルになんで車椅子で来たの?」という疑問は正直あった。


正直にいうと車椅子で砂漠地帯を長距離移動するのは大変だ。本人はもちろん、周りの人々もである。その時には当然に、事前に了解されてたと思うが、その車椅子の男性をサポートするするようになってはいた。しかし、私のように事前に今回の集団行動にレクチャーを受けていない人間には、その集団で炎天下を移動することは大変だった。


私のように生半可な気持ちで参加してる人間には「なんで車椅子で参加するの?」と素直に疑問が湧いてきた。一定時間を炎天下で移動してると日射病にかかったような状況で頭痛がしてきた。


結局パレスチナの砂漠のような道なき道を何時間か歩いて目的地まで到着した。
その到着地でまた一泊する計画だったが、一部の人に動きがあり、エルサレムまで新聞記者の人はタクシーで移動するとのこと、それに二人ぐらい便乗するらしい。私も衝動的にその便乗組に参加することにした。実は、その時に私は頭痛がしてきていて「日射病」に罹った時の症状だったので、また昨夜のような民宿で寝れなかったら大変だという防衛本能が働いたのである。


だから、みんなには詳しい説明をせずにそのタクシーの便乗組に参加したのである。(そのことは、ある意味で勝手な行動に映ったと思うが、正解だったと自己弁護して思う。
後その晩の宿での状況をみんなに聞くと、宿の近くまでイスラエル軍の戦車が来ていて緊張した状況で大変だったらしい。おそらく私が参加していたら、また一睡もできなかったかもしれない。


とにかく、私と新聞記者と二人の4人はタクシーでエルサレムのホテルまで移動したのである。
私がその時にみんなと別行動を取ったのは「頭痛がする」ので大事に至らないようにしたのだが、他のみんなには詳しい説明をしなかったので、「勝手な人間だ」と思われたかも知れない。
(続き)

アラファト議長の手は小さくて柔らかだった!『回想』

 パレスチナ、ガザとイスラエルの状況には胸が痛むが、実は私は昔、パレスチナでアラファト議長と会って握手した経験がある。


と書くと、皆さん、びっくりされるかも知れないが、その経緯を思い出しながら書いてみたい。


時は、今から23年前、私は名古屋市でFCコンビニ店を経営していたが、FCコンビニ店は典型的な搾取システムで日々コンビニ本部の奴隷契約に悩まされてストレスが溜まるばかりだった。


そんな時に、中東のパレスチナへ訪問するツアーが企画されて、私は衝動的に応募して参加したのである。それまで、パレスチナ情勢に詳しい専門家でもなかったが、名古屋で市民の平和運動に時々参加していて、まさに衝動的に参加することになった。


約1週間の日程だったが、24時間営業のコンビニ経営をする立場では、本来冷静に考えたらとても参加できる状況ではなかった。
1週間もコンビニ店の現場を離れて、海外に旅行をするなんて常軌を逸していると思われるし、コンビニ本部にも詳細は言わずに、出かけた。


今思えば、無茶だったと思う。1週間の間のコンビニ店の運営は何とか従業員に任せるとしても、旅行先は紛争地域の中東地域のパレスチナ、イスラエルである。
万が一に、私の生死に関わることが発生するかも知れない。その時のために、その事態が起きた時の為に遺言的な対応も友人に頼んでおいた。


今にして思えば、なんでそんなことまでしていく必要があったのかと言われるし、自分でもそう思う。
幸にして、無事に帰国できたから良かったが…。冷静に考えたら、私は行ける状況でも、環境でも、条件も無かったのである。


「パレスチナの紛争地帯でデモに参加する」という予定があったらしいが、企画も突然の計画で行ってみないと分からないのである。後で、分かったことだが企画の中心は東京の社会党の事務局が関わっていたようだ。


そういう訳で、全国から寄せ集めの20名弱の参加者メンバーは、現役の新聞記者が一人居て、あとは普通の市民で、中には車椅子での参加者も居てまさに寄せ集めだった。(私の独断的な感想)


そのメンバーで飛行機を乗り継いで、テルアビブ空港に着陸したのは深夜だったと思う。
ところが、その空港で入国許可がおりないのである。当時はすでに紛争状態で、パレスチナへ訪問するという目的は秘密でイスラエルで観光という名目だった。
当然に、イスラエルも「のんびりと観光できる状況ではない」と判断して入国許可は出ないから、このまま引き返せと言うのである。


外務省を通じて連絡が取れているはずだと交渉するのだが、無理だと言うのである。
引き返せと言われても、深夜でもあるしどうするの?新聞記者の人もいろいろと連絡を取ってるが難しい。詳しい経緯も分からないその他参加者は、このまま帰るの?と言う不安と危機の状態に驚くばかりだった。「ここまで来て、帰るの?」


空港の外では、日本大使館の人間も待ち構えていたと思うが、入国許可が出なければどうしようもない…。


私は、最悪のパターンを想像して、このまま朝までテルアビブ空港のどこかで雑魚寝でもして、朝になったら追い返されるパターンを想像していた…。


ところが、何時間経過したか分からないが、突然に入国許可が出たのである。




空港の外では小さなバスが待っていて、宿まで送られて朝まで仮眠した記憶が微かにあるが、詳細は記憶にない。20数年前の出来事だから。


今思えば、当時の記憶を文書に残しておけば良かったなと思うのだが、ビデオカメラを持参して撮影はして、帰国して一部デジタル化して置いたのだが…。


今、記憶を振り返って、イスラエル側からパレスチナ側への検問通過時の緊張感、一部砂漠地帯を炎天下で通過したこと、パレスチナ人の民泊での体験、PLOのアラファト議長と握手したこと、エルサレムを訪問したこと、嘆きの壁でのこと、金箔のドームのことなどを書いておこうと思う。


イスラエル側からパレスチナ側へ行く時に検問を通過するのだが、銃を構えているイスラエル兵を見た時には正直恐怖感を覚えた。


ラマラのPLOの事務所がある所を表敬訪問した時に、私達はバスで移動していたのだが、事務所から数人が出て来て私達のバスに近づいて来た時に、テレビなどで見るアラファトらしき人物が見えた。「アラファト議長だ!」と興奮した。 バスの後方ドアから乗り出して覗いていたらボデイガードらしき人が手招きするので私は急いで駆け寄った。アラファトさんのすぐ前に寄って手を出したら握手してくれた。柔らかな手だった。ゲリラ闘志のイメージと違って、ゴツゴツした逞しい手を想像していたが違った。背もそんなに高くなくて小柄だった。


日本からわざわざ会いに来てくれて感謝するというようなスピーチを代表の人に話していたらしい。この時に、アラファト議長の横にスタイルの良い綺麗な中年女性がいたのだが、後に名古屋YWCAで開催したパレスチナ問題の講演会にパレスチナから来日した女性活動家が、その時の写真を見せたら「私の友人だ!」と言っていたのが印象に残っている。


(この数年後に、アラファト議長は死亡している。暗殺されたという説もあるが定かではない。)


パレスチナに行って見て、パレスチナの人々がアメリカの「ダブルスタンダード」https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_653ef24ae4b032ae1c9b7b61を批判するのを何回も聞いた。「米国はいつもパレスチナを支援する国連決議を拒否権を行使する」