ダラットの風に吹かれて〜、日本語教師。

ベトナム在住16年の日本語教師、サイゴンからダラットに引っ越して、コロナ流行には翻弄されながらニャチャンとダナンを行ったり来たり。今はダラットに舞い戻り日本語教師引退後の生き方を模索中。

パレスチナの難民キャンプに民宿するが『回想』

 パレスチナの現地では、難民キャンプと言われる地域に訪問して民宿する計画があった。
私たちは数人づつに分散して、難民キャンプの民家に民宿することになった。
異境の地で炎天下を彷徨いながら難民キャンプの民家に宿泊させてもらうのである。言葉も通じないし、突然にやってきた東洋人(日本人)の集団に、向こうも戸惑ってるようだ。好奇心で目がキラキラと輝いてるようだったが、こちらはクタクタだった。


炎天下をうろうろと行動したので、汗だくだくでシャワーを使わせてもらったが、後で知ったが向こうでは水はとても貴重品なのだった。私は日本の生活のようにシャワーを使ってしまい、後で後悔した。「何日分も使ったのでは?後で住民の水は不足したのでは?」と気にした。
結局、その晩は床についても頭は緊張していて、いろんなことが頭をめぐり、朝まで一睡もできなかった。極度に緊張すると。一晩は眠れないことがあるが、そうなってしまった。


朝になり、宿泊代として幾らかのお金(💲)を床の寝具の中に忍ばせておくことにした。


肉体的にキツイと思ったのは、昼の炎天下をかなりの距離を歩くことになったことだった。
実は、その時の集団には車椅子の人が一人いたのである。私より若い男性だったが、「この中東の異境の地パレスチナ&イスラエルになんで車椅子で来たの?」という疑問は正直あった。


正直にいうと車椅子で砂漠地帯を長距離移動するのは大変だ。本人はもちろん、周りの人々もである。その時には当然に、事前に了解されてたと思うが、その車椅子の男性をサポートするするようになってはいた。しかし、私のように事前に今回の集団行動にレクチャーを受けていない人間には、その集団で炎天下を移動することは大変だった。


私のように生半可な気持ちで参加してる人間には「なんで車椅子で参加するの?」と素直に疑問が湧いてきた。一定時間を炎天下で移動してると日射病にかかったような状況で頭痛がしてきた。


結局パレスチナの砂漠のような道なき道を何時間か歩いて目的地まで到着した。
その到着地でまた一泊する計画だったが、一部の人に動きがあり、エルサレムまで新聞記者の人はタクシーで移動するとのこと、それに二人ぐらい便乗するらしい。私も衝動的にその便乗組に参加することにした。実は、その時に私は頭痛がしてきていて「日射病」に罹った時の症状だったので、また昨夜のような民宿で寝れなかったら大変だという防衛本能が働いたのである。


だから、みんなには詳しい説明をせずにそのタクシーの便乗組に参加したのである。(そのことは、ある意味で勝手な行動に映ったと思うが、正解だったと自己弁護して思う。
後その晩の宿での状況をみんなに聞くと、宿の近くまでイスラエル軍の戦車が来ていて緊張した状況で大変だったらしい。おそらく私が参加していたら、また一睡もできなかったかもしれない。


とにかく、私と新聞記者と二人の4人はタクシーでエルサレムのホテルまで移動したのである。
私がその時にみんなと別行動を取ったのは「頭痛がする」ので大事に至らないようにしたのだが、他のみんなには詳しい説明をしなかったので、「勝手な人間だ」と思われたかも知れない。
(続き)